歴史



【囃子連について】
囃子連の正確な発足時期は不明だが、現在の山車の原型となる屋台が明治10年の作であることから、その頃には囃子連が発足していたと推定される。明治初期に同市内の中台から分かれた囃子とも言われているが、長い年月を経て中台の囃子の曲調や太鼓の文句には違いが多い。


【囃子について】
囃子の流派は「王蔵流」。現在演奏する曲目は以下の通り。
屋台(ハヤ)、鎌倉、鎌倉攻め、四丁目、エンバ(インバ)、子守唄、数え唄、宮昇殿、ヌキサシ。
囃子手はそれぞれで笛一人、小太鼓二人(我々は「ツケ」と呼び太鼓の音程が高い方を右側に置き「真(シン)」、音程が低い方を左側に置き「流れ」と呼んでいる」)、大太鼓一人(我々は「オウカン」と呼ぶ)、鉦一人(カネ)に、それぞれの曲目に対して舞手が付き、曲と舞の組み合わせには決まりがある。


【山車について】
先述の通り、山車の原型となった屋台が明治10年頃に制作されたと伝えられている。
作者は大袋新田の宮沢敬次郎氏。(これは平成になって行われた山車の改修時に囃子台下の枠組み正面の框(かまち)の裏に記銘されていたことで判明した。)
彫刻は貫井豊之助氏。
その昔、地元の御大尽7軒で金を出し合って制作されたものと言われ、当時7軒で山車の部材を分散して保管していたという。その内の1軒が火災に遭い、その家で保管していた部材が焼けてしまったという話も伝えられている。その後の明治28年に源頼朝の人形が乗せられ、「源頼朝の山車」となった。
山車は唐破風付き屋根で、二重鉾、四ツ車。
平成9年の町内山車曳き回し時に部材が緩んできたため、翌平成10年に大改修を実施。ただし、使用できる部材はそのまま活用し、唐破風屋根、轅(ながえ)、車輪、斗組、上勾欄等は昔のままである。山車の改修を施したのは隣町の旭町三丁目の故・高山栄次氏。(高山氏は野田五町、旭町三丁目の山車を製作、連雀町の山車製作にも関わっていたことで知られている。)
今でも地元曳き回しの際に高山氏の自宅前を通過するときは山車を向けて奉納囃子(鎌倉)を演奏している。また、改修時に残った古い部材を活用してトラックの荷台に設置用の屋台を作成。


【川越まつり参加について】
山車の曳き回しは2年に1度だが、地元を曳き回したのは昭和23年頃までで、その当時国道16号も完成したことから山車の曳き回しは一時中断された。この頃に川越市内の宮下町へ山車ごと囃子連が出向き、川越まつりに参加したことがあったという。
また、昭和25年から56年までは同市内の脇田町に山車・囃子連と共に川越まつりに参加していた。当時脇田町の町内は広く、現在のロヂャース近辺まで曳き回していたという。その際に西武新宿線の踏切を越えなければならなかったが、踏切手前で車輪を外し、背の低い台車に乗せ換え、上の高欄を 外して踏切を越えていたとのこと。当時は西武新宿線も30分に1本くらい電車が通過していたためにできた芸当であった。当然、踏切を越えてからまた車輪と高欄を組み直し、曳き回しを行なっていた。現在では到底出来ない運用である。
当時川越まつりは10月14、15日で日程が固定されており、10月13日から出向き、その日から演奏を行ったので3日は囃子を実演していた。夜は脇田町で宿を用意してくれていたが、山車の見張り役を置かねばならず、囃子連の若手が山車で寝泊りをしていたらしい。 川越まつりでは色々な仕来りがあり、それに沿って山車の曳行も行われていた。川越八幡宮前では「宮昇殿」を演奏、 他町の会所を通過する時は山車を向け、「静か物」と呼ばれる曲目の「鎌倉」を演奏していた。また、脇田町へ行くようになってからは山車の車輪に鉄輪を嵌めた。鉄輪無しでは長距離の山車の曳行で車輪が傷むため、当時脇田町在住の横溝氏に鉄輪を入れて頂いた。その鉄輪は現在もそのまま使用されている。その後、昭和57年に脇田町で山車を製作したため、大塚新田の山車は持って行かなくなったが、脇田町に囃子を伝授していたため、その後数年は脇田町の山車に乗り込み、一緒に囃子を行なっていた。それからは地元の曳き回しのみとなった。山車の曳き回しは関越道より市内側、国道16号を越えない地区で現在に至る。

参考:入間郡とその近郊の祭り囃子